2012年10月30日:朝令暮改

 
 
朝令暮改

今月は、スティーブの命日(の月)である。よって、最後までスティーブネタで押し通すことにする。

彼については、すでにあちこちで語り尽くされており、一年もたっていまさらな感はあるが、昨年、突然の訃報に接したおりには、書きたいことは山ほどあったにもかかわらず、何も書けなかったことが悔しい。

この一年、スティーブに関する書物は新たに出版された物、過去に出版されたものも含めて一切読んでいないし、資料もたいして読み返した訳でもない。あくまでも、自分の記憶の中にある彼をもとに書いているので、けっこういい加減であやしい内容にはなると思うが、もともと言いたい放題の雑記/雑想がこのサイトの基本方針なので、問題はあるまい。


前回、iPad mini の設定価格について、適当な私見を述べてみたのだが、iTunes、App Store 等で、アップルが作り上げてきたインフラについては、あえて言及しなかった。

iPad の成功の影(でもないけど)には、iOS 機器を取巻く環境が大きく影響していることは、世間一般にも認識されていることであり、いまさらな話になるのもアレなので、アップルが作り上げた購買層という表現でお茶を濁したのである。

なぜ、濁す必要があったかといえば、個人的にはあまりそのインフラのお陰は被っていないことと、逆に売上げにもほとんど貢献していないからだ。

もちろん、iTunes はその前身であるところの Sound Jam MP (Casady & Greene) を購入して以来、歴代 iPod 以前の Rio 800 (Sonic Blue) の時代からずっと使い続けているし、iPhone や iPad を使用するようになってからも、App Store は利用している。

しかし、未だに音楽や映画は専らアマゾンなどで購入した CD や DVD からリッピングしたものばかりで、ただの一曲、一本でさえ iTunes で購入したことはない。App Store を利用するのもせいぜい無料版のソフトぐらいであり、iOS 版の iWork を始めアップル謹製アプリや Mac OS のアップデータ以外で購入した物は、大辞林、AirVideo、などその数はさほど多くない。大半は、標準添付されたソフトの機能で事足りている。

このような状況で、あたかも一般的な iPad ユーザ視点で持論を展開するのも如何なモノかという気もするし、アップルが長年の紆余に曲折を経て作り上げてきたインフラ、特に有料のデジタルコンテンツについては、一定の距離をおいた客観論にとどめておきたいという考えが働いたからである。

ソフトウェアに関しては、バージョンアップがある程度保証されているので、購入に対してさほど抵抗はないのだが、音楽や映画を筆頭にほぼ買い切りになる現状の著作物に関しては、現物支給に対してのみ対価を支払う価値がある、と考えているためなかなか手を出しにくい。

LP 時代に購入したアルバムの大半は、CD になってから再度購入し直したが、DVD で購入した映画などをいまさら BD でもう一度購入する気にもなれない。だからといって、かつてのテープメディア(カセットテープ、VHS、ベータ、8mm、等)に至っては、数千本にもおよぶ散財をやらかしてきた年代の者にとって、中身だけに金を払う習慣は根付いていない。せめて現物でもあれば諦めもつきやすい、という程度の細やかな抵抗である。その点では、国内では未だ未対応の iTunes Match には期待していたのだが、…余談である。

要するに、日々デジタルの恩恵に預かりながら、一方ではアナログの呪縛からも逃げ切れずといった呈で、あまり昨今の時流には乗りきれてはいない。

長年使用してきた Mac は、すでにビジネスツールを通り越してライフツールと化しているので、もはや他の選択肢などあり得ないのだが、iPhone を筆頭に iPod や iOS 機器を使用するのは、Macintosh の周辺機器としてという側面が強い。未来のパーソナルコンピューティングに思いを馳せて…、といえば聞こえは良いが、実際はただ使っていて面白いからであり、それ以上でもそれ以下でもない。

で、本題の朝令暮改である。

朝令夕改、朝改暮変ともいわれるらしいが、この熟語自体、法令などがすぐに変更されて一定せず、あてにならぬことを意味する、あまり有り難くないことに使用されることが多い。

ぶっちゃけ、朝余計なことを言わなけりゃ夕方に訂正する必要もないだろう、という戒めの言葉であると個人的には考えている。

アップルのやり方の基本にあるものを理解するためには、この「余計なこと」の本質と背景を見極めることが必要である。

アップルも企業である限り、利潤を追求するのは当然のことであり、それ自体が悪いことではない。本来の目的は、そちらであることが社会通念上一般的であるが、ただもう一方で利潤の追求の仕方にはさまざまなスタイルがある。コンシューマ製品の場合は企業イメージというモノが、重要な要素となり製品の売上げに大きく影響する。

スティーブ・ジョブズは、かつてのアップルの顔であり、見方によっては彼そのものがアップルであり、アップルとは実はスティーブ・ジョブズのことなのである。

スティーブの復帰後、アップルの最も顕著な変化は「自分たちが本当に欲しいと思うものを作るんだ、という思想を全社的に浸透させている企業」というイメージである。あくまでも、アップルが顧客に見せたいイメージであり、実際がどうなのかはこの際あまり関係がない。ユーザがそう思ってくれたら、ラッキーという程度のものだ。

それまでアップルは、市場占有率におけるビハインドをいかに挽回するかが、企業としての最大目標であったように見える。(実際90年代末期のアップルは、その存続が危ぶまれていたんだから、当たり前な姿勢ではあるが、…)

請われて復帰したスティーブは、ある意味気楽なもんだったろう。仮に潰れて無くなったとしても、責任の大半はそれまでの経営陣にあったわけだし、それならということで、思い切った大鉈が揮えて好都合だったに違いない。外から見ても感じたのは、市場占有率なんぞとっとと諦めて、やりたいようにやろうぜ、という良い意味での開き直りである。

ただ、そこにはアップルに対する、ただならぬ愛情があった。

ポリタンクや初代の iMac などのふざけたデザインで会社を建て直そうという奇策を、真当な会社の役員連中が素直に認めるとも思えないし、藁にも縋るせっぱつまった感が功を奏したことは、間違いあるまい。結果、それなりに Mac の販売量も増えたが、その程度では大きく傾いたアップルにはまだ足りなかったのだろう。Mac をあらゆる、コンテンツの中心とするべくデジタルハブ構想をぶち上げた。(当初は、まだ iPod もなく Rio や Palm が登場する)

その次に目をつけたのが、当時は異業種であった音楽業界であり、「Rip-Mix-Burn」の旗印のもとにメディアの呪縛から開放しようという試みも行われた。音楽業界としてはあまり面白くはなかったが、そこは商売人としてうまく立ち回ったスティーブのおかげもあって、iPod へ向かって階段を上り始めた。

そのころから俄に、コンピュータ会社でありながら一般的にもファッショナブルであるとか、所有することで自己満足を得られる的な、勝手なイメージが生まれ、一時はそれを利用した広告展開もあったようだ。が、基本的にはありがちなイメージ戦略とは少し異なり、ユーザ体験(User Experience)を重視するという方向で、当時の業界では暴挙と言われたリテールストアに注力するなど、言うなればスティーブのやりたい放題である。

最高経営責任者としての露出度はピークに達し、一言一句、一挙手一投足が暴露され、編集され、報道され、出版され、あらゆる解釈があらゆる解説者によって披露され、 カリスマ経営者の発言としてことあるごとに引用され、一人歩きをするようになる。

○現実歪曲空間。
○闘争本能の固まりのような独裁者。
○1000マイル先は見えているが、足下は見えていない。
○刺激的で、放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者。

などなど、スティーブを揶揄する言葉には、罵詈雑言を含めて枚挙に暇がないが、朝令暮改もそんな中のひとつである。

「市場調査などしない、まだ存在しない物を顧客に聞いてどうするんだ。」というのは、ヘンリー・フォードの有名な言葉のアレンジだが、生前スティーブも、人は形にして見せるまで何が欲しいのかわからない、という意味のことを好んで語っていたように思う。まるで、僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る的な、企業経営者ならいっぺんは言ってみたいものだろう。

「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」という元祖自動車王の名言も、企業人にとっては奇麗事にしか聞こえないが、スティーブはマジでこれをやろうとしたフシがある。もちろん、奉仕を主とするという部分ではなく、事業は栄えるという部分に惹かれたのは明らかであるが。

iTunes Music Store を始めとするインフラ(エコシステム)作りは、たぶんそんな壮大な計画の一端であり、iPod に対する囲い込みというようなセコイ考えからではない。いわば、大きな飛躍のための第一歩であり、いつまでも音楽業界だけを見ているわけではないことは、その後の映像および出版に対する展開を見れば、瞭然である。

「自分たちが本当に欲しいと思うものを作る」という精神は、その時点で可能な限りのテクノロジーをつぎ込んで、ある程度コストは度外視しても妥協を許さず、本当に満足出来るモノを創り上げよ、という至上命令に等しい。ファッションブランドと違い、競争の激しいコンピュータ業界のことだから、コストをあまり無視し続けると、NeXT の二の舞いになることは、スティーブも身にしみて分かっていたのだと思うから、あくまでもある程度、である。

だが、万人を満足させることなど、妥協の産物にしかできないことであり、この時点で絶対矛盾が生じる。なぜなら、人々の要求は様々であり、あるものを作り上げて供給しある程度行き渡れば、必ず別のモノを欲しがるという図式がある。

アップルが、iPad を幾ら善かれと思い 9.7インチサイズを選択しても、必ず他のサイズを欲しがる。それは、価格であったり、重量であったり、その時点のテクノロジーの限界があるかぎり、要求にはキリがない。

ドーナッツの穴という表現は、このような理由に基づく見解であるが、それは最初から存在する物ではなく、何かが生まれその結果として現れるものだから、時間的な要素も重要になってくる。

「成長より利潤に価値があり、マーケットシェアは戦略の主たる目的ではなく、成功の結果を示す指標に過ぎない。収益を維持すれば、あと一日は生き延びられる。」というのは生前のスティーブの言葉である。利益を度外視してまで、その穴の中に湧いて出てきたような競合(していると見なされている)他社との市場占有率など、アップルがスティーブの思想に忠実なら、興味を持つとも思えない。

したがって、iPad mini の仕様や設定価格については、相対的にはリースナブルとは言えないかもしれないが、アップル製品として現時点で執り得る最善の選択肢なのであれば、個人的には納得できる範囲内である。だが、ユーザには別の選択肢があり、何かを引換えに納得できるなら、もちろんそちらを選択することも可能だ。それは、価値観の違いであり、全く議論の余地はない。

作る側の視点と、使う側の視点の違いから生じる問題もある。人は形にして見せるまで何が欲しいのかわからない、という言葉を裏付ける例は、iPod が証明している。

最初は、せいぜいアルバム一枚程度の再生装置であるが、メディアを無くしただけ、容量を多少増やしただけでは主役にはなれない。ましてや、大きく重く不安定なドライブに転送速度も遅いインターフェイスに加えて、ロクなサポートソフトも無いまま、力技だけに頼って作られたミュージックプレーヤの末路を見れば、綿密な計画と周到な準備が必修であることは明らかである。

そのためには、それを実現出来るテクノロジーが確立されないと、アイデアだけでは製品は実現しないし、ユーザに受け入れられない。ユーザ体験(User Experience)を重視すれば、ユーザに我慢を強いらずにすむテクノロジーが必要になり、製品化のタイミングこそが重要な要素となる所以である。

スティーブの「ヤスリ付属7インチタブレット」の話も、その時代に実現可能なテクノロジーに基づく最良のユーザ体験を重視した、作る側の視点からの発言であることを忘れてはならない。これはひとえに、技術的な側面に由来するものである。

今回の iPad mini の発表により、10インチクラスのタブレットが 600g 前後、7インチクラスが 300g という、一つの指標ができた。着目すべきは画面サイズだけではなく、重量という要素も重要な側面を持っている。15インチで 4K2K の iPad だって技術的には可能だろうが、現状で 2kg を超えるようなタブレットは売れない。今すぐ実現できることでも、具体的に望んでいることでもないが、高解像度や大画面に対する漠然とした要求は、必ずある。

仮に、15インチクラスで 300g が実現できたら、次に望まれるのは果たして何だろう。それがポケットに入るようなテクノロジーで実現出来るなら、だれも7インチは欲しがらないし、そんな市場も存在しない。画面サイズ自体が、あまり意味のない物にさえなってくる。

そういう意味では 10インチにしても 7インチにしても、あくまでも今だけの需要であり、全ての製品はいつの時代も過渡期にある。

iMac や MacBook シリーズにも過去どの時点においても、複数の画面サイズが存在したこと、また時代とともに大型化されてきた事実に目を背けて、iPad の画面サイズについて四の五の言う輩は、ただ単に企業間のレースを面白く見せるために騒いでいるだけである。本来そこに、勝ち負けなどありはしない。まだ、ゴールは遥か彼方で遠いのだ。

Retina Display もなく、バッテリーの容量や価格、重量やサイズなど、あらゆる観点からその時代の最良と判断された設計であるからこそ、iPad はあれだけの数が売れたのだ。今ごろになって、単なるネームバリューやブランドで売れたような論調で語られるのは、まことにもって失礼な話であるが、ただ口を開けて待っているだけの連中には、わかるはずもない話かもしれない。

マーケッティングの達人のお言葉と称して、「ドリルを買う人が欲しいのは、ドリルではなく穴である」というのがある。

人の好みは、千差万別、十人十色、多種多様、種々雑多、とバラエティーに富んでいる。また、世の中には無視出来ないほど大多数の、どうでもいい派が存在する。安けりゃいい、軽けりゃいい、小さけりゃいい、とりあえずどうでもいい、という人たちだ。彼らは、テクノロジーや製品そのものには全く興味がない。ただ、目的と手段を履き違えないだけに、手ごわい相手である。 彼らを侮ってはならない。

彼らに高級感を訴えても、エスキモーに冷蔵庫を売りつけようとするようなもので、無駄である。 輪ゴムやガムテープに高級感を求める人は、たぶん少数派であるし、圧倒的にお勤め品がひしめく世間一般を見渡せば一目瞭然である。 コモディティ化というらしいが、日用品レベルまで熟成した(腐り切った?)市場においては、もはや高級品は少数派にしかなりえない。

その限りにおいては、アップルがどんなに丹精込めて創り上げようが、その製品は数の上で絶対に主流にはなり得ない。いや逆にマジになってで作れば作るほど、そのジャンルが一般化すればするほど、普及品によって埋め尽くされるのが現実である。アップルがイノベータを自負するのなら、別のジャンルへと旅立たねばならないタイミングになるだろう。

それが前回の、Mac も含めて本来アップル製品自体、市場で最も多く売れるようなシロモノではないと思う、という根拠になっている。

いくら、iPad がコンテンツを重要視して、使用中には見えなくなるなどと嘯いても、現状でタブレットみたいなモノの購入者の目は、ディバイスをしっかり見ている。それが証拠に、やれスペックがショボイの、画面の解像度がどうのという評価でしか語られない市場であるから、ある意味まだ大丈夫だろう。アップル製品の躍進は、期待していいはずだ。

ま、「自分たちが本当に欲しいと思うものを作る」というポリシーをアップルが崩さないことが、大前提になっているんだけどね。

スティーブならどうしただろうか、などと考える必要はない。そんなことは、アップルの連中が一番よく知っていることだ。(ほんまかいな?←アップル人事異動)

…ということで、ヒトツよろしく。


2012年10月某日 Hexagon/Okayama, Japan


 

2012年10月30日